c101新刊のあとがき

c101で出したシャニマス同人誌のあとがきです.

 

聖蹟桜ヶ丘を一匹の亡霊が徘徊している.アイドルマスターシャイニーカラーズという亡霊が.

シャニマスのキーワードの一つはその写実性である.細かいモーションと彼女らの息遣いや細やかな声の魅せる演技,まるで手を伸ばせば彼女らに届きそうに思えるほど美麗な姿とリアリスティックな背景…ソシャゲの持つ最大限の可能性を発揮した本作品は,コミュと呼ばれる彼女らとの掛け合いの中で単なるプロデューサーとアイドルの関係性を超えた,より解像度の高い真に迫ったレベルに彼女らの現実性を引き上げるのである.

ホドロフスキーは現実に帰れと言ったが,加速主義の果てに光ファイバーと脳の神経ニューロンに負荷をかけながら光の速さで情報が消費される今日では,ニュースのスレッド欄は既に焼け野原だった.どこもかしこも焦げ臭い匂いが漂うインターネットは,最悪な方法で現実との境界を取り払った.ある意味で究極の決別とも捉えることもできるわけだが.だからこそ私たちはオアシスを求める必要があった.砂漠を往くインターネット・サーファー達の列が果てしなく続いていく.日照りの中では太陽光発電が最も効率が良いと言って,みな太陽光パネルを背負っている.パネルにUSB type-Aのコードを差し込んでスマホを充電すれば永久機関の完成だ.もう私たちを笑う奴はいない.皆いなくなってしまうから.砂漠になった東京の湖面に写った月を撮って,アニソンの歌詞を添えてツイートする.私も「あの花のように」の歌詞を添えてツイートした.いいねは付かなかった.雨はまだまだ降りそうになかった.

要するに萌えコンテンツの氾濫は,文化の成熟というより衰退と言った方が的を得ている.簡単な設定,記号化されたキャラ,単純な物語の量産型を追求し,商業主義的無盲に追従した凄惨たる萌え文化のゾンビは,神の見えざる手が吊るす糸の操り人形だ.

間違えないで欲しいのは,私は現状の萌え文化を批判したい訳ではないと言うことである.見方を変えれば,萌えコンテンツの置かれた現状はステーブルとも捉えられるのだ.萌えコンテンツはその針路を,何か新しい概念を創造するクリエイティビティの時代から既存のコンテンツの可能性の幅を広げる時代に変えたのである.

その意味でアイマスは画期的だった.先代,先先代のアイマスの持つ魅力,それはアイドルとの距離感だった.「手の届かないこと」そのものが魅力だったアイドルの存在を逆手に取り,プロデューサーの立場から彼女らと業務上のパートナーとなることで,一線を保ちながらも次第に彼女らとの親交を深め,優越感を感じる.完全なマッチポンプじゃないか.全てははじめから283プロダクションに存在していた.

しかし今までのアイマスはここで終わりだった.あくまで美少女との触れ合いに主眼を置いたからである.それは努力や絆の物語であったが,何かが足りていないと感じていた.それを我々は二次元と三次元の超えられぬ壁故の違和感と解決したが,それは実際問題の本質ではなかった.

シャニマスはこの違和感,埋められなかったニッチを上手く利用した.シャニマスはコミュを単なるアイドルとのコミュニケーションの手段としてではなく,彼女らの葛藤や激情,高揚や不安を映す鏡としての機能を持たせたのである.そして我々は真の意味で,彼女らとの壁を取り払うことが出来た.

アイドルをアイドルたらしめる定言命法とは何か.先述のように,私は彼女らが崇高な煌めきであること,誰かにとっての北極星であることそのものがアイドルを定義しうるのだと勘違いしていた.しかし彼女達は唯そこに,観念が先立つのではなく,まさに唯物的に存在していたのだ.弁証法なんて訳のわからないマルクスの手法を使うまでもなく,ただ単純に,私は彼女らの声を聞くことが出来たし,触れようと思えば触れられた.ただそうしなかっただけであって.思えば私がアイドルマスターシャイにカラーズを起動し,声優が「アイドルマスターシャイニーカラーズ!」と絶叫してから画面をタップするまでの一連のルーティンは,道具主義(pragmatisch)的実践であったのかもしれない.

ディスプレイの境界はますます見分けが付かなくなる.それは技術的な問題であるし,蓄積されたアイドルマスターの経験はかつてないアイドル空間へ我々を誘うだろう.

要するに,この本を手に取ってくれたあなたに大いなる感謝を込めて,ありがとう.